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【コラム】受験歳時記9月号「甲子園の土」

コラム

市民プール

初心者用プール。顔を水につけたままバタ足を続ける男の子。それに合わせ、すぐ横を父親が水中歩行で進んでいく。やがて縦10mを泳ぎ切ると、息を切らした子どもに父親は声を掛けた。「よぉし、今度は向こうの25mプールで泳いでみるかぁ」。「うん」と答えるや子どもは駆け出し、一般者用プールに足から飛び込んだ。

四文字の言葉

夏の甲子園。球児たちは帽子のつばの裏に「好球必打」とか「負けじ魂」とか四文字の言葉を書き込み試合に臨んだという。たしかに打席に入るとき、滴る汗を拭うとき、脱いだ帽子に目をやる選手の姿がよく見られた。では監督の場合はどうか。107年ぶりという1世紀を超えるブランクを埋め覇者となった慶應義塾高校。春先の練習日初日、監督がホワイトボードに書いた文字は「自我作古」だったという。「我よりいにしえをなす。新しい分野への試練は勇気をもって乗り越えてこそ歴史は始まる」。慶應義塾の信条の一つであり、高校野球を変える、そんな気迫を感じさせる慶應義塾高校の戦いぶりだった。他方、仙台育英高校の監督がもたらしたのは、連覇を逃した直後の「敗者復活」の四文字。努力し続けていれば負けっ放しの人生はない、と強い励ましの言葉として受け止めた人も多いことだろう。

両監督に共通するのは、悔しいとか次は頑張るとか、つい自分の気持ちだけを答えてしまいそうな場面で、勇気と感銘を与える言葉を持つ人、長く噛みしめるに値する言葉を持つ人、波乱続きの甲子園劇場の複雑さを知った後、それを明快に淀みなく定義できる言葉を持つ人であることだ。選手と対等に話す大人のチーム慶應義塾、選手個々の気持ちを汲みつつ対話を重視する仙台育英。いずれの監督のいずれの指示や伝令にも、古い体質を剥ぎ取ろうとする新時代の指導者らしい教育的配慮が感じられる大会だった。

成長への道

教育的配慮とはぎゅうぎゅう外から押し込むように与えるものではなく、本人が自力で成し遂げたと自然に思えるように陰から支え、いつのまにか新しい世界に連れ出してあげること。自主判断のプレーを十分身に付けてから、決勝の舞台に押し上げることであり、自力で10mを泳いだ自信を与え、新しい25mプールへと導くことである。初心者用プールで子どもの全身を手で支えていたことは、父親は敢えて明かさないし、一般者用プールでは自由に泳がせておくことが成長への道と考えている。

ところで慶應義塾高校と言えば、生誕100年にちなんでか、今春の国語入試に司馬遼太郎の三部作『峠』(新潮文庫)の下巻から作者のあとがきが出題された。この作品の本編には、主人公が長年の論敵の中にいささかの卑しさもない天稟てんぴんともいうべき真の人間たる優れた質を見出し、そんな存在を「あいつは偉い!」と嘆息まじりに何度も口にする場面がある。試合後の勝者をたたえる敗者の心からの拍手が生の人間接触を見終えた感動をもたらしたように、気持ちをみずみずしくさせてくれる印象深い場面である。

4年ぶりの通常開催となり、球場周辺の土産物店では久しぶりに小さな瓶が売り出されたという。全国の球児たちは「甲子園」と書かれたその小瓶に、思い出の土と一緒に、大会で学んだ思いつく限りの四文字の言葉を詰め込めるだけ詰め込んで持ち帰ったことだろう。

 

  • 天稟…生まれつきの性質、才能。 生得。 天資。

「受験歳時記」は、受験生とそのご家族に送る、一年の折々に寄せたSAPIX中学部オリジナルコラムです。

【著者】増田恵幸
SAPIX中学部にて高校受験指導、受験情報誌『SQUARE(スクエア)』編集に携わる。2019年定年退職。在籍時より『受験歳時記』を執筆し、『SQUARE』およびSAPIX中学部ホームページにて連載中。