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【コラム】受験歳時記 1月号「1枚の写真」

コラム

野球少年

グラウンド代わりの河川敷で、朝から元気に走り回っていた野球少年たちが、まだまだ日が高いというのに肩を落としてとぼとぼと帰って行く。どうやらさっきの本塁打ボールが奥の草むらに飛び込んでしまい、探してはみたが見つからず、諦めて帰るところらしい。そんな少年たちに見せたい写真が1枚ある。

神業

高さ50mの吹き抜け天井の天辺には、キャットウォークと呼ばれる作業用の細い通路が通してあり、幅1.5mの薄暗い空中回廊になっている。金網一枚の足場の網目からは、熱狂するスタジアムの興奮が立ち上ってくる。その時間、足もすくむこの通路の中間付近で、一人のカメラマンが重い器材を体に縛り付け、身を屈めながらじっとシャッターチャンスを待っていた。

 

昨年1年を締め括る最も忘れ難い写真を1枚選ぶとしたら、やはりサッカーW杯、侍ジャパンの予選リーグ第3戦、スペイン戦での「1ミリの奇跡」の瞬間を捉えた写真だろう。あれだけ広い緑のピッチの中で行われたプレーではなく、ピッチのほんの片隅の隅、細い白線1本をめぐるワンプレーが勝敗を決する場面に全観衆が立ち合った。はたしてボールはインか?アウトか?世界的な物議を醸す一つのプレーを今回はハイテク技術が一刀両断に裁いたが、さらなる確証を与えたのが、件のカメラマンによる金網1枚の暗がりから命がけのレンズが射止めた画像である。逃げるボールに左足を差し込み、ライン上1ミリ残して右後方に蹴り返すのも神業なら、それを真上から逃さず捉えたカメラの腕前も、とても人間業とは言えないだろう。

 

受験情報誌『SQUARE(スクエア)』で連載中の「読書のすすめ」216号掲載回で紹介した書籍によれば、羊という漢字は、羊を正面から見た顔形からできたという。さらに美という漢字は、同じ羊を上から見た姿の象形だという。たしかに、羊の正面顔は、左右の耳の下に眼を細く引き、鼻と口を薄く描くだけで出来上がる。しかし、視点を真上に切り替えれば、一変して、そこには全身、雪のように無垢で純白の毛をまとった美の化身のごとき生き物が現出する。ピッチ上では際どいプレーの1枚にしか写らないが、真上からのカメラの視点で捉えれば、W杯史上、永く語り草になるであろう超美技の瞬間が映し出されていたのだ。

もう1点

PK戦に夢絶たれ、うずくまる選手たちの姿は、ドーハの悲劇の再現かと思う幕切れだったが、次の瞬間、応援席の全ての人に立ち上ってきた思いは、ここまでみんなで一つになれたこと、たしかに夢は潰えたが、夢見た時間は夢じゃなかったということではないだろうか。

 

この1枚の写真。受験生ならあらゆる場面で己の心の燃料にしない手はない。まだ日の高いうちから肩を落として帰ってはいけない。見つけ出すまで草むらを掻き分けて、がむしゃらになってみなくては。どうせやってもは心の弱さ、どうせやるならが心の強さ。入試前日まで学力は伸びる、という受験生の金言があるが、言い換えれば、それは、逃げるボールは最後の最後まで追いかけろ、伸ばした足の爪先で、思いっきりラインの中へ蹴り込んで、なんとしてでももう1点を、と貪欲になれということなのだろう。

「受験歳時記」は、受験生とそのご家族に送る、一年の折々に寄せたSAPIX中学部オリジナルコラムです。

 

【著者】増田恵幸
SAPIX中学部にて高校受験指導、受験情報誌『SQUARE(スクエア)』編集に携わる。2019年定年退職。在籍時より『受験歳時記』を執筆し、『SQUARE』およびSAPIX中学部ホームページにて連載中。