[受験歳時記] 第41回「父と息子」

赤いテープ

レジ前の床に間隔を空けて張られた何本かの赤いテープ。高校生らしき男子がそれらを指差し、薄ら笑いを浮かべながら2メートル後ろの父親に言った。「これって、意味ある?」。すると父親は、しばらく息子をまっすぐ見てからこう答えた。「人間は今、見えない脅威を相手に、丸腰で立っているということを、これからも長く覚えておきなさい」。赤いテープはそれを教えている。ふざけ半分の子どもの問いに対しては、父親はきっぱり断言の人でありたい。子どもが一人前になるまでは、家庭の中の社会の先生であり続けるということなのだろう。

マスク売り場

ラジオの投稿コーナー。お便りの主は路線バスの運転手。朝5時に出かけ夕方4時に惣菜を買って帰るのが日課だ。ある日、スーパーに行くと、普段おとなしい息子が突然、店内を駆け出した。目で追うと、1家族1箱限りのマスク売り場。行列の最後尾についたが、残り数箱で自分の順番というところで、息子は意外な行動に出た。「父さんって、縫い物得意だったよね。帰ったらマスク作って」。言うが早いか列から外れ、すぐ後ろにいた坊やの手を引いた母親に順番を譲っている。

妻に先立たれたとき息子は小6。以来、必要に迫られ父親はたしかに縫い物がうまくなった。料理もアイロンかけも板についてきたが、その3年間、息子は自分の料理や家事に一度も文句を言ったことがない。その我慢する胸の内を思うとたまらない気持ちになるが、いつの間にか、こんな場面で他人の気持ちを考えられる人間になっていた。そのことが何ともうれしかったという内容だった。「病める貝殻にのみ真珠は生まれる」という言葉があるが、母の不在は子どもにすれば、埋めようのない空白だとばかり思ってきた父親にとって、ここまで心優しく育ってくれた息子こそ輝く真珠に思えたことだろう。

逆回り

今、各国各界で互いに呼びかけ合う声が飛び交っている。なかでもドイツ首相のスピーチは、拳々服膺すべきもので、今ある状況を照らし、人々に約束を与え、希望に導く確かな灯りのように読める。ちなみに、そのスピーチの中に「今は、逆が正しい」という表現がある。もちろん距離をおくことでしか助け合えない現状を嘆いての表現だが、いわば地球市民を救うため、一時的に地球を逆回りさせようという呼びかけである。

つまり、一時的にせよ人間と人間が、世界規模で逆ハンドルを切る大きな曲がり角に立っている。そこに偶然、中高生としてさしかかっている自分たちの身に、今、降りかかっていることを受けとめ、見聞きしておくことは、考える人間になるための、思慮深い人間になるための貴重な体験になるだろう。同時に、極めて異例なこの時期を、先輩たちがどう通過して行ったかを、後輩たちがじっくりと腰を据えて注目していることも忘れたくない。

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