[受験歳時記] 第40回「母の日」

ポニーテール

「ママ、お客さんになってー」
保育園から帰った娘が、美容院ごっこをしたいと言いだした。母親はエプロンを外しながら「はいはい、お願いしますね」と窓際の椅子に腰を掛ける。「どんなスタイルにしますか」「そうね、おしゃれなのがいいわ」「はい、分かりました」と娘は嬉しそうに母親の髪をとかしはじめた。「お客さんは髪がきれいですね。後ろでまとめて長く垂らしてみますね」と言いながら、いそいそとブラッシングしている。どうやら最近、保育園での大の仲良しがポニーテールにしたのを見て、母親の髪で真似てみたいらしい。

一文字メッセージ

中学時代、定期試験の勉強中、ちょっと小休止をと思うタイミングを察していたかのように、ノックの音がした。ドアを開けると、熱めのお茶と小盛りのラーメンを載せたお盆を持って、母が立っていた。湯呑みと丼からゆるゆる立ち上る二つの湯気の向こうから、決まって母は「頑張ってるね」と声をかけてくれた。「頑張ってね」ではなく「頑張ってるね」が嬉しかった。「真っ最中の今の頑張り」をほめてくれる言い方に助けられる思いがした。余分な気負いを与えまいとする自然な言葉かけが心にしみた。「ありがとう」の前に「いつも」の三文字を添えるだけで、日頃の感謝を二倍、三倍伝えられる気がすることがあるように、「る」を一文字添えることで、気持ちの負荷を和らげようという気遣いをふんわり感じたものだった。

優しさってさりげなさなんだな、と思いながらラーメンのスープまで飲み終えた娘。「お母さんたら、こんなところにも」と、いかにも可笑しそうに顔を上げた。見ると食べ残した細い麺が一本だけ、丼の縁にくるくる丸まったまましっかりしがみついている。それが何やら文字のようでもあり、丼をあれこれ傾けてみると、まさしく、ひらがなの「る」に見える!母からの一文字メッセージに小声で答える。「お母さん、あなたの気持ちは分かってますよ。だって、あなたの娘だから」

お宝動画

やがてプロの美容師となった娘。「母の日だから」と母親を椅子に座らせて、髪をやさしくブラシで撫でる。娘は梳(くしけず)る細い髪に母の年齢を感じている。母は娘が動かすブラシの音に、遠い昔の美容院ごっこを思い返している。そういえば、あの日も窓際のカーテンが、ゆらゆら揺れていた気がする。大人の髪を束ねるには、保育園児の指はまだまだ短すぎて、首の後ろで小さな手がぎこちなく動きまわっているだけだったのに、ブラシの当て方、髪のすき方、巻き上げ方、今ではどれをとってもほれぼれするほど感心してしまう。カッティングするハサミの音を心地良く聞いていると、母親は思わず口にしてしまいそうになる。「頑張ってるね」と。仕上げの髪をセットしながら、されながら、母と娘には一枚の共通の構図がある。抱いている思い出に互いに心を抱かれている。過ぎてしまえば思い出は、すべてがお宝動画になるのだろう。

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