[受験歳時記] 第36回「ルーティン」

連想

空席があるのに座らず、電車のドア前に立つ若い母親。背中の赤ちゃんに何やら話しかけている。「マー」と言えばママのこと、「ンマ」だったらご飯のこと。「パー」と言えばパパのことで、「ンパ」だったらアンパンマンのこと。ほんのわずかな、たったの四語で母子の会話は成立しているようだ。

また、別の日、ラジオリスナーのお便りにこんなものがあった。ある母親が、幼い女の子を自転車に乗せ、近所をあちこちサイクリングして回ってみた。「あれが郵便局」「あれがお蕎麦屋さん」と一つずつガイドしていき、交番の前に差し掛かった。「あそこに困っている人を助けてくれるお巡りさんがいるのよ」と教えてあげると、まだ数語しか発しないはずの娘が、いきなり「アンパンマン」と言い出したそうである。「人を助ける」というたった二文節の言葉からアンパンマンを思い浮かべる連想の面白さとかわいらしさに、娘の成長を感じたという母親からのメールが紹介されていた。

ご縁

今、SAPIX中学部の公式ツイッターでは、卒業生や保護者の言葉を紹介している。かじかみそうな受験期の心を毛糸の手袋のように温めてくれる実感の語録集だが、その中の一つ。ある母親が「ご縁のある学校からは合格がもらえるものだね」と感慨をもらす。すると、娘からはこう返ってきた。「ご縁は努力の末にもらえるものだよ」と。

実のない果物は味がしないように、実感を伴わない言葉は上滑りするだけである。しかし、受験一筋、並々ならぬ数百日の体験を経た娘の、この言葉は味わい深くさえある。そこに母親は費やした日数以上の娘の成長を感じとっているのだが、たしかに、運が天から降ってくる授かりものとしたら、縁は自分でつかみに行くものなのかもしれない。それを身をもって知った娘にとって、努力の末につかんだ「ご縁」とは、必死の思いを重ねて登りきった山の頂上で、ようやく目にした美しい蝶のようなものだったのかもしれない。

ABC 、EFG

安全への呼びかけの一つとして、「A(あたりまえ)のことをB(ぼんやり)しないでC(ちゃんと)しよう!」というのがある。「気を引き締めて凡事徹底」ということだろうが、このABC標語は、搭乗前のパイロットが、競技前のアスリートが、今から舞台に立とうという俳優が、ロッカールームの鏡に映る自分自身に言い聞かせるルーティンでもあるそうだ。

心落ち着けるべき場面を前に、自分に向かって「ABC 、ABC 」とつぶやいてみることは、決して無駄なことではないだろう。手のひらに漢字で「人」と書いてから、ごくりと飲み込む真似もよく見かけるが、その時飲み込んでいるものは、むしろ「己」の一文字なのかもしれない。ちなみに「ABC 、ABC 」とつぶやいたその後に「EFG 、EFG 」と加えてみてはどうだろう。すなわち、こう気合いを入れるおまじないである。「E(エンジン)全開、F(ファイト)全開でG(ご縁)をつかみ取ってやる!」。

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