[受験歳時記] 第22回「読書の秋」

七つの雨だれ

上がりかけた雨の中、片手に広げた傘を持ち、もう片方の手は母親とつないだまま前後に大きく振りながら「あめあめ・ふれふれ・かあさんが~」と元気よく保育園児が帰っていきます。赤信号で立ち止まり、ふと上を見上げて何やら叫んでいます。

「ピッチ、がんばれ~」「チャップ、がんばれ~」。つられて視線の方向に目をやると、電線に雨だれが七つ。左右からするすると寄り集まってくる滴で膨らんだかと思うと、その重みに耐えかねた雨だれは、大きい順にポタン、ポタンと地面に垂れ落ちています。滴の荷重をこらえながら必死で電線につかまっている雨だれの様子を見ているうちに、母子で声を合わせ、名前を付けて応援してみたくなったのでしょう。

「ピッチ~、がんばれ~」「チャップ~、がんばれ~」。おそらく七つの雨だれは、左から、その名もピッチ、ピッチ、チャップ、チャップ、ラン、ラン、ラン。

本の醍醐味

陽だまりのベンチに、小さな子どもを抱いた若い母親が腰を下ろしています。胸の前の女の子の、鼻や口を細い指で優しくつまみながら、絵本の読み聞かせをしているようです。読み聞かせは、お話への興味を呼び起こしますが、それ以上に本の中の豊かな言葉が、母親の声を通して惜しみなく注がれ、子どもは「言葉は母乳である」ことを母の腕の中で体感していきます。

娯楽として読む本には、ストーリーを追いつつあっという間に読み終えてしまうおもしろさがありますが、自分の血肉として感じ取りながら読む本は、話の展開よりも行間から立ち上がる言葉の魅力が圧倒的で、なかなか先へ読み進められないものです。本は、そこに自分のことが書いてあるから、あるいは、自分の胸の内を言い当ててくれる言葉が散りばめられているから、ついつい読んでしまうものでしょう。

自分自身に出会わせてくれるさまざまな言葉が迫力ある表現をもって立ち現れてくる切迫感、身につまされるような現実感、しびれるような読後感を知らずにいるとしたら、生涯の醍醐味の、その大きな果肉の部分を味わえないことになってしまいます。言葉という母乳の味を知らずにいるのは、いつまでも子どものままでいることと同じことなのかもしれません。

自販機

ガタン、ゴロン、カラン。――青色表示だけだった自販機に、赤色も混じる季節になりました。でも取り出し口に転がり出る品物の音は、季節に関わりなく、この3種類で変わらないようです。

ガタンはペットボトル、ゴロンは瓶、カランは缶。ガタンと重い落下音、ゴロンと転がる回転音、カランと軽快に跳ねる清音。ガタンは中身を守る柔軟さ、ゴロンは液色の変化を防ぐ安全性、カランはアルミ材質の手頃さを音で教えてくれています。

感覚とは違いを検知する力であり、音は文字にして書いてみると耳の中でそれぞれ異なる音が鳴り出す気がします。ちょうど雨上がりの園児のように音に名前を付けてみると、音の多彩さを聞き分ける感度が高まってくるかもしれません。

パラボラ・アンテナ

一日に、十人と話をし、百字の手紙を書き、千字の文字を読み、一万歩を歩く――そんな頭と体を保つための十進法はともかくとして、少なくとも毎日、千字の文字は読まないと、やがて百字の手紙すら億劫に思えてきて、すっかり書けなくなってしまうそうです。

表現力を、発信力を、と叫ばれはしますが、その前提は、まず語彙力や受信力でしょう。それも語彙や受信の量や回数ではなく、言葉への多感さや感度、言葉に対するパラボラ・アンテナの緻密な精度です。

たとえば本は決して読んだ量や冊数などではなく、たとえ一冊でも身に沁み込むような一行が胸に残ること、刺さる言葉がもたらす抵抗や衝撃が大きな収穫であるはずです。そして、何よりも大切なのは、いつまでも、いくつになっても、そんな「感じる心」を持ち続けることです。

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