[受験歳時記] 第55回「辞書」

山道

山の愛好家は狭い山道ですれ違うときが楽しみだそうだ。「上っていくと、右手に水芭蕉の群生が見えますよ」「それは楽しみですね」「ロープウェイで頂上まで上がってしまい、近くで見られなかった私の分も楽しんできてくださいな」と互いに登山帽を振って別れる。頂上まで歩くことは「上る」、ロープウェイで頂上に着くことは「上がる」。きちんと正しく使い分ける言葉には、脚を使って汗を流している相手への敬意が込められている。

Insight into English

SAPIX中学部YouTubeチャンネルの英語動画シリーズ「Insight into English」第三弾が公開された。そこでは、英語の学習効果を高める「辞書の活用法」をテーマに、いくつかの例題を紹介していて、辞書は決してやみくもに引くものではなく、絞りこんだ中から意味を探り当てていくものであることがクリアに理解できる。これを仮に池と釣り人に例えてみると、ただ糸を垂らすだけでは魚は寄ってこない。が、水の濁りや立ち騒ぐ波、あるいは水面の気配をじっくりと見定めてから釣り糸を沈めていけば、やがて確かな中(あた)りや力感ある魚の動きが、竿を握る手に強く響いてくるようなものだろう。実際辞書には、どの見出し語にも意味に加えてさまざまな情報が補足され、知りたい内容を無事探り当てられるよう考え抜かれた誘導の矢印があれこれ施されている。

動画では、辞書を引くには英語力の根幹を成す文法の力が大切であることが示されるが、確かに、例えば辞書の巻頭で薄い一頁に収められている「利用の手引き」などは、文法力を備えているほど使い勝手の良いガイダンスである。また、学習者の大半は辞書の語釈と本文を照らし合わせるとき、同時に、文法の知識を動員して探り当てた意味の重要性もその都度判断しているはずである。そして、その判断の経験回数と集積こそが考える力の滋養になっていく。つまり「辞書の活用」とは、「辞書に教わる」から「辞書で考える」への使用スタイルの進化を身に付けることだといえそうだ。

道しるべ

辞書といえば、国語辞典の編纂に携わる「お仕事小説」に、かつて本屋大賞を受賞した『舟を編む』(三浦しをん/光文社)という作品がある。場面は全く異なるが、前述の「上る」と「上がる」の違いで知る人も多いかもしれない。そして何といっても、磨き抜かれた語意・語釈を一つずつはめ込んでいく気の遠くなるような作業といい、めくる頁の紙の質感にまでこだわる編集魂といい、辞書を作る人間の熱量には圧倒される。そしてラストの場面で明かされる、病床からそのまま帰らぬ人となったベテラン編集者が手紙につづった辞典作りへの思いは、漠然と言葉を使って暮らしている当たり前の日々について、改めて自覚的になることを強く促すものがあり、胸に迫る。

どこかの辞書の序文に「辞書は言葉の鏡であり、鑑(かがみ)である」というのがあったが、時代を追いつつ、同時に、言葉の規範であり続けるのが辞書の使命なのだろう。何百枚もの薄い紙をめくり心地良く重ねて綴じた製本物、その脈々たる文化資産からこぼれだしそうな無数の言葉、意味の多様さ、奥深さは、言葉を扱う生身の生き物として生まれ落ちた者たちにその幸運を知らしめ、これからも長い山道にさしかかる度に、道しるべとなってくれることだろう。

SAPIX中学部 英語科講師によるコラム動画「Insight into English!」

SAPIX中学部 英語科ならではの考え方や着眼点がたっぷりと詰まったコラム動画を、YouTube公式チャンネルで公開中。英語の知識をより広く、深く使いこなすためのトピックを解説しています。以下よりぜひ、ご視聴ください。

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