[受験歳時記] 第21回「朝の公園」

注意書き

ある中学校の生徒用昇降口。九月からの新学期が始まると、生徒の下駄箱の前に、細長い簀子(すのこ)がズラリと並べて置かれるようになりました。下履きの汚れを昇降口で食い止めたいのか、「上履きには地べたで直にではなく、簀子の上で履き替えること」という注意書きが貼られています。

しかし、ただでさえ下駄箱の間の通路は狭い。それを簀子でさらにふさがれては、と生徒側からさぞや不満噴出になるだろうと思いきや、いたって静かなままでした。それは、注意書きに書き加えられていた次のひと言によるものと思われます。「ただし、狭いようであれば、自分たちで片づけても構いません」と。

なるほど、簀子は持ち運びできる軽さで、横づけして置けるほどのスペースもすでに白線で確保してあります。追加の一文は不満の嵐を防ぐためではなく、その後の決定を生徒側に委ねている点がユニークなのです。簀子の「使用」を押し付けるのでなく、「試用」させて自己判断を促しているところに「教育」が感じられます。

親と子の、あるいは先生と生徒の間に引かれた見えない切り取り線、それを子どもに、生徒に自主的に切らせようという「自立への仕掛け」が感じられます。

ラジオ体操

朝の公園で、まもなくラジオ体操が始まります。元気なお年寄りが集まり、就学前らしき娘を連れた若い母親も混じっています。ところが、その小さな女の子、体操の列から外れ、大きな石碑の脇にちょこんと座りこんでしまいました。

それを見た母親が近づき、何やら話しかけています。おそらくは「みんなといっしょに!」とか「一人だけ勝手なことして!」とか、娘のわがままを責めているのだろう、と思いきや、次の瞬間、意外な光景を目にしました。

その女の子、真正面の母親に向かい口を大きく開けて長々と話をしているのです。あの幼さで、今の自分の胸中を滔々(とうとう)と説明しているかのように見えるのです。

――号令に合わせてみんなで同じ動きをすると、全員が同じタイプの人間に見えてくるの。自分だけは外れていたい、と思うことって許されないの? 一律の筋書きにみんなが合わせるのは、私、何か違う気がするの。それだと妙な無理が自分にかかってくる気がするの。お母さん、分かってくれる?――とでも主張しているように見えるのです。

緑のリング

公園の隣には、緑の草地が広がっています。娘の話を聞き終えた母親は、草の茂みにかがみ込み、シロツメクサでしょうか、足元からいくつか摘んでは、まとめて、結い上げ、きれいに編み上がった緑のリングを娘の手首にかけてあげています。よく、自分の正直な気持ちが話せたわね、と誉めたたえるかのように。

ふと見ると、女の子が座りこんでいた石碑には「我、自立せり」という五文字が太々と彫り込まれています。自立とは、自分の正直な気持ちに気づくことから始まるものでしょう。みんなにただ合わせることとは何か違う、一律や画一からは少し距離を置いていたい、目に見えない切り取り線で自分と他者とをすっぱり切り離しておきたい。それらの思いを言葉にできないでいるもどかしさが、自我や自立の芽生えなのかもしれません。

どう言えばいいのか分からないけど、それでも黙って聞いてほしいとき、子どもに必要なのは、この若い母親のような、ただうなずいて聞いてくれる相手でしょう。

風に揺れると、春の花はコーラスを始めますが、秋の花は相槌(あいづち)のしぐさを見せてくれます。草地の奥ではコスモス、リンドウ、曼珠沙華の花々が、風に揺れています。女の子の話にうんうんとうなずいています。まるで女の子の顔を覗き込むかのように花首をやや傾けて。

イチゴと虫の音

四つ葉のクローバー探しの名人といわれる女子高生、四つ葉を見つけるヒケツを聞かれ、「赤いリンゴの中で真っ赤なイチゴを見つけるようなもの」と答えていました。同じ赤色系の中のわずかな違いを感じとり、異質な赤を放つ真紅の粒を見つけ出すようです。

秋の庭の虫たちは、てんでに鳴くと大変なけたたましさですが、偶然、鳴く音がそろうと、見事なほど静かに澄んだ単一の音を聞かせてくれます。それらにならって考えれば、子どもの自我に気づくには、圧倒的な全体基調一色の中から、ひとつだけ真っ赤なイチゴを探し当てるような、あるいは虫たちのフルオーケストラが、偶然一つの和音を奏でるある一拍をとらえるような、そんな難しさが伴うのかもしれません。

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