[受験歳時記] 第20回「祭りばやし」

何でここまで

今年の夏の甲子園。特に準々決勝の第4試合は、100回目の記念大会にふさわしい劇的な幕切れでした。翌日のスポーツ紙は、連投の豪腕投手を「打者に応じた配球が実にていねい」と高く評価した後で「何でここまでやれるのか」と驚きのひと言を加えていました。

そのとき、はた、と思い当たりました。なるほど、これまで「ていねい」とは、細かなことに注意を払うという意味だと思っていましたが、より一歩踏み込めば、相手に対して「何でここまでやれるのか」と驚嘆の声を上げさせるほどの徹底ぶりを意味する言葉なのではないでしょうか。

「もてなしの宿」や「くつろぎのホテル」も、懇切でていねいな歓迎をサプライズに変えて何気ないサービスとして提供しています。隅々まで行き届いた宿泊客への徹底した「ていねいさ」にも「私のために、こんなことまで!」と感心させられることが数多くあります。

3つのT

午前3時過ぎ。バイクが止まっては走り、少し走ってはまた止まる。そんな動きの繰り返しに合わせてカランとポストが開く音がし、ポトンと朝刊が投げ込まれる音がします。配達業には「3つのT」―「定時、定位置、ていねいに」という心がけがあるそうで、毎朝3時に欠かさず鮮やかに実践されるので、早朝気分と相まって実に気持ちがいいものです。

ちなみに、新聞配達員の「ていねいさ」とは、雨の日の朝刊をビニールにくるんで届けてくれることであり、ポストの高さまで伸び放題の花のツルをかばうように、新聞を斜めに差し込んでくれることです。

答案を書く際の「字はていねいに」の「ていねいさ」も同様のことなのかもしれません。きれいな箒目(ほうきめ)を付けながら答案の上を掃き清めてでもいくような入念さ、そして「何でここまで落ち着いて答案に向かえるのか」と採点者が舌を巻くほどの心の平静さを、一文字一文字に込めながら書いてみる。そんな心がけが見事な楷書を生み出すことでしょう。

文に「その人」が表れるように、文字には「そのときの心」が出てきます。背筋を伸ばした気構えで、ぬかりなく試験に挑む心境であることを、文字の一筆、文字の運びにじわりとにじませてみるのもよいでしょう。

持ち出し自由

海まで車を走らせます。カーラジオから都会のニュースが流れ、乗降客用に開設した「地下鉄図書館」の閉鎖を伝えています。「持ち出し自由」で借りて行った利用者のほとんどが本を返さず、駅のクズかごに捨ててあることもあるためだそうです。

海沿いの温泉町に着きました。花火に混じって盆祭りのお囃子(おはやし)の音が聞こえます。オレンジ色の灯火を吊るした屋台が並び、ソースや綿飴のにおいが漂ってきます。納涼大会の踊りの輪に加わる人たちは、皆、素足。櫓(やぐら)の脇に脱ぎ並べられた踊り手たちの下駄は、誰の心遣いか、同じ向きにそろえてあり、帰りの履物も気にせずに今宵は存分に踊りにふけることができるでしょう。

地下鉄の「持ち出し自由」の貼り紙には、厚意の大らかさや本好きな客の退屈をいやそうという明るさがあり、「何でここまでやれるのか」と知らしめてもいるかのようです。モラル、マナー、管理といった都会的な用語を説き聞かせるのではなく、単に「他人様の物は、自分の物のように大切に」という、ごく当たり前の決まりごとを、貼り紙一枚で伝えたいだけなのでしょう。

盆踊りにも同様に「他人の履物は、他人の物」といった素朴な公徳心でつながるゆるやかな心地良さが感じられます。下駄の向きを変えておくといった用意の良さを人知れず済ませてしまう目立たぬ機転にも、「ていねいさ」とは小さなサプライズであると教えられる思いがします。

隆々たる夏の夕暮れの雲が、再び走り出した車のルームミラーの中で細く小さくなっていきます。

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