[受験歳時記] 第18回「森の風景」

半夏生

夏至は過ぎても半夏生は越すな。稲の正常な生育のためには田植えは半夏生までに済ますものとされ、田舎の小中学校はこの時期に5日間ほどの「農繁休業」に入り、一家あげて田植え作業をしたものでした。7月2日は半夏生(はんげしょう)。――農作業の区切りですが、半夏は植物の名前。耳で聞くだけならば、表の面の半分だけが突然白く変わる花の様子を文字にした「半化粧」とでも書き間違えてみたくなるような名前です。上品でいてしなやかな、折れそうでいてたおやかな響きをもった季節を表す言葉です。

同じく7月に入ると、近所の小中学校の音楽室からは、「少年時代」の合唱が聞こえてきます。夏の朝のまだ涼しい時間帯、校舎を囲む木立ちを渡って聴こえてくる歌声は、森の中のコーラスのようです。

子供の耳

半夏生は、間違えてみたい書き取り漢字ですが、聞き間違えそうなフレーズもあります。JR高崎線の停車駅を知らせる車内放送。「宮原、上尾、桶川、北本、鴻巣」の順番が時に「今から 羽を 置きがてら ひざ元に こう載せ」と聞こえることがあります。また、ヒット連発のある作詞家は「『恋人たちの初夏(はつなつ)~』のフレーズが、レコーディングでは『濃い紫のはまなす~』と聞こえ、詞づくりのおもしろさを知ったそうです。

秀逸なのは子どもの場合です。その聞き違いには大人の目を開かせてくれるものがあります。遮断機が上がるのを待つ坊や、列車が目の前を「ガタゴトン、ガタゴトン」と走っていく。やがて通り過ぎると、手をつないでいる母親にこう言ったそうです。「ねえ、ママ、いまの電車ね、ボクハココ、ボクハココって言ってたよ」。走ることに使命感を帯びた電車、軌道を外さず駆け抜けることにアイデンティティーを賭ける電車の懸命な姿が見えてくるようです。また、水の張られた一面の田んぼから湧きあがる蛙の大合唱。「ケケコ、ケケコ」と聞こえるはずが「ココロ、ココロ(心、心)」と聞こえてきたよ、という少年の詩もありました。幼くして人の気持ちの機微を見通しているかのような透徹した澄んだ視線を感じさせます。子どもの耳は不思議です。「詩人は変化を知らせるカナリヤ」といわれるそうですが、それにならえば、子どもは、新鮮な驚きや発見を促してくれるカナリヤなのかもしれません。

少年時代

「少年時代」の合唱は、秋の音楽発表会に備えているらしく、同じ四小節を繰り返しています。もともとは合唱曲ではなく、作詞作曲の井上陽水氏自身がソロで歌う楽曲として作られたものです。陽水氏は、酔いしれて聞き惚れていたくなるような高く伸びやかな歌声の持ち主です。その耳元に届く言葉の断片や歌詞のきらめき、水音のような清冽な透明感や濃い緑の豊穣感など、歌詞と歌声と旋律から見えてくるものはまさに森の風景です。雨あがりを思わせるひんやりとした空気、立ち上る土の匂い、浅瀬の水の心地よさ、足の指で掻く川底の泥、その清潔な冷たさまでもが鮮烈です。なかでも、特筆すべきは、選び抜いた言葉への鋭い感度、「風あざみ」や「宵かがり」といった辞書にはない言葉の使用、その独自の造語がもたらす効果です。

陽水氏が思い描く夏の自然の中に少年がいるという風景、その実感をピタリ言い当てる言葉は辞書の中にはなかったわけで、リアルな実感を求めるには、音符はあっても言葉のない場所、「かぜあざみ」や「よいかがり」という5音のひらがなで音符を作りだしてみることだと、陽水氏自らが実証しているかのようです。

ある大学教授は、自身のブログの中で横行する卒業論文のコピーアンドペーストを嘆いています。学士・修士の努力を踏みにじる高度に巧妙な複製も出回っているようです。そんな教育指導者たちの現状を斟酌したのかどうか分かりませんが、提出された論文がオリジナルか否かを判定するソフトウェアもあるそうです。それでも、おそらくは次々登場する新手の敵は一網打尽が難しく、その場、その場で撃退するという対応策にすぎません。嘆くべきは複写や複製の手口の横行ではなく、学びへの取り組み、その姿勢一点にかかっているのでしょう。学びの徒は、真正な研究内容を天下に堂々と発表していくことで、学士、修士と課程を深め、身を清廉にし、高潔な人品へと磨かれていくはずです。

「なければさがして切り取ってくる」検索コピペ型ではなく、「ないならつくる」創造の森の少年少女に戻ってみませんか。

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