[受験歳時記] 第11回「渋谷駅」

スクランブル交差点

人差し指が道玄坂方面を、中指がセンター街方面を……右手のひらをいっぱいに広げたまま机の上に伏せてみると、目の前に渋谷駅前の地図ができあがるそうです。ドラマで、ニュースで、天気予報で、ほぼ毎日のようにテレビ画面で目にする渋谷の交差点ですが、駅から放射状に伸びるそれぞれの道路の方角を、机の上の5本の指が示しているそうです。

それらの指の先端から、どしどし押し寄せてくる人波で、この週末は埋め尽くされることでしょう。ハロウィンの仮装パレードです。コスプレ集団が無数に繰り出し、ごった返す中、はたしてどこからどこまで行進するのか、いったい熱狂の渦の中心がどこにあるのか、知るすべもありません。ただただ、いつもの自分とはガラリと違って見える自分を大群集の中に紛れ込ませたくて、押し合いへし合い集まってきます。

山手線に乗り品川駅に着くと、たちまち車内はガラ空きになります。一方、渋谷駅に着くと、こちらでは乗客が総入れ替えになるだけで、すし詰めの状態は変わりません。おそらく品川駅は乗り継ぎ主体の大ターミナルなので駅構内から出ない利用客も多いのでしょうが、渋谷駅は文化と娯楽の大消費地を擁し、何百万もの人間を飲み込んでは、どっと構外に人の波を押し出す、まるで世界屈指のどでかい港のようなありさまです。

一度きり、一度だけの今

数学の「場合の数」という単元に「一筆書き」と呼ばれる問題があります。すべての場所は一度しか通れないことを条件とする最短経路の本数を数える問題です。たしか単位当たりの道の本数をすべて合計してから算式で求める方法があったような記憶がありますが、もうひとつ、数える単位である「度」と「回」との使い方の違いを知ったのも、この単元からでした。

一般に、きわめて起こりえないことは「度」で表され、数多く起こりうることは「回」で表されます。ベテラン横綱なら「何回」も優勝して当たり前ですが、まだまだ若手の平幕優勝などは、おそらく「一度」きりの出来事でしょう。「せめて一回だけ」と言うよりは、「せめて一度だけ」と言うほうが切実さは募ります。乗り換え目的の中継地点である品川なら「何回」も通るでしょうが、若者文化が一局集中するビッグタウン渋谷の街に集まって、そろって豪勢ないでたちをして同世代で夜通し練り歩くのは、一年のうちでもこの週末、「一度」限りのことというつもりで、若者たちは集まるのでしょう。

まだ青年期の頃のことですが、読書週間が始まったばかりの時期、近くに大きな本屋さんがあり、その店先に、全国の青少年向けだったのでしょう、次のような標語を大書した横断幕が張られていたことがあり、なぜか胸底にくすぶる焦燥感を言い当てられたような、青春時代に特有のむずがゆくなるような思いがしたことがあります。
そこにはこうありました。――「早くしないと大人になっちゃう」――

子どもは子どもであるときに、子どもとして楽しんでおくこと。そして若者は若者であるうちに、若者として泣いておくこと。とはいえ、なにも、そうすることで、やがて大人になったときにきっと役に立つことだろう、というような意味ではありません。将来の何かの時に役立てるからという目的ではなく、今いる時間の今いる場所で、十分すぎるほど笑ったり怒ったりしておくことは、今しかできない体験なのだということです。今、生きているという実感は、まさに今の今を生きている、この自分自身しか味わえない。今、子どもであり、あるいは若者であることは、今しかない「一度」限りのこと。何回も何回も訪れるようなことではないから、渋谷の夜の大行列のフィーバーの中で、十分にかみしめておきたくなるのでしょう。

なぜなら、彼ら若者たちの胸の中には、例外なく切ないほどの、今しか叫べない、むずがゆくなるようなたったひとつの思い――「早くしないと大人になっちゃう」という言葉があるからです。「一度だけの今」を踊り狂っておきたい、そんな最中にある若者たちの力が、もはや誰にも止めることはできないことぐらい、これまで何回も何回も注意と制止のホイッスルを浴びてきた大人たちには、とっくに分かっているはずです。おそらくは、そんな大目に見てくれる大人たちがいてくれることで、子どもたちは心から安心ができ、素直な心を芽生えさせていくのでしょう。

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